昭和41年9月21日 夜の御理解 (末永信太郎) №41-106
何をさせて頂くでも、着眼を間違えますと、成就することでも、成就しない。成功に終わるはずのが、成功に終わらない。だから、着眼が大事だと、私は思う。例えば、信心でも尚更、同じこと。一つの難儀な問題というものが、まあ、お願いの焦点になる。おかげを頂かなければならんと、人間の知恵力じゃ出けん、と。どうでもおかげ頂かなければならんというので、そのことがおかげを頂くために、おかげを頂くためにと言うて、信心をする。ね。
そういうのが、大体多い。それでは、本当の焦点じゃない。それは、信心のけいこになるわけじゃない。けども、それでは、本当のおかげにならない。だから、焦点を変え、着眼点というものが大事である。信心をさせて頂いておって、変わったことが起こってきたら、おかげと心得て信心せよ、と仰る。信心をさせて頂きよってですよね。だから、信心がないなら違う。信心をさせて頂きよって、たとえば、困ったことが起こってきたと、難儀なことが起こってきた、と。
ね、ですから、その難儀なことを、どうぞおかげになりますように、おかげになりますように、というおかげじゃつまらん。そういうのでは、本当の信心のけいこは出けん。ね。おかげになるじゃろうか、ならんじゃろうかと思うて、不安である。ね。
ですからね、そこんところを、一つ、考え方を、着眼を変えなければいけん。ね、たいがいな人がそこなん。難儀なことが起こってくる、難儀なことが、どうぞおかげになりますようにと、言うばっかり。なるほど、その、一心を立てて、お願いをする。毎日、不安な生活、心配である。それではいけん。
私は昔、あの、にわかを見た時に、にわかを見た。そのにわかの全部を覚えてないけど、一部を覚えてる。二人のその旅人が、まあ、見知らん国を旅して回ってるわけなんです。ある所へ参りましたら、茶店がある。で、茶店で、その、(しょうじ?)に腰をかけてから、まあ、ここで一服して行こうじゃないか、というので、その、お茶を注文すると、お茶汲み屋さん達が二人で出てきてから、お茶を汲んである。
まあ、お茶菓子いっちょもらおうか、と。で、まあ、お茶菓子を一つずつ取って、まあ、お茶を。で、お茶をもう一杯下さい。ね。そしたら、その、茶汲みよる二人の人達が、その、はあ、もう、今日はお茶が四杯。まあ、一杯五十円で、一人二百円。ね。また、お菓子を(下されと言うた?)時、あれが百円ずつで、二百円。はあ、今日、もう四百円儲かったち言うてから、その茶汲み屋の人達が、その、話しよるわけです。それで、その旅人がびっくりするわけなんですね。
はあ、もう、茶一杯五十円も取らるる、と。ああ、あそこは二杯(頂いたけん?)百円ぞ、と。それに、茶菓子まで一皿、あげなもんば百円も取るっちゃ、ほらあ、もうしもうた、こげん所でお茶飲まにゃよかったと言うて、その、誤っとるわけなんです。ところが、その、お茶汲みの人達が言うことにですね、ここではですね、もう、金が多いすぎてたまらんという、その、国らしい。だから、その、百円がと買うたら、百円持って行ってもらわにゃいけん、という、その、島らしいんです。
ね、ですから、まあ、そのお茶とお菓子で四百円も食べたから、四百円持って行ってもらわんならん、というわけなんです。そしたら、二人が喜んでですね、そんなら、まちっとお菓子をくれ、そのお菓子をくれといったような、まあ、にわかじゃった。ね。
私達がですね、そういう一つの、もう、逆さまのことを、いっちょ考えて見るといいですよね。ね。お互いがたとえば、はあ、これは、もうこれで百円損した。これで、もう、四百円も損する。はあ、もう飲まんが良かった、食べんが良かったと思うようなことでは、いつまで経っても、おかげを受けられん。ね。
これは、百円がとした、四百円がとしたというような、もう、そこにですね、思い方をぜんぜん変えなければいけない。信心して変わったことが起こってきたら、おかげと心得て信心せよと仰る。今まで、たとえば、なら、百の難儀と言うなら百の難儀ぐらいは、まあ、どうやらこうやら持てたけれども。ね、五百もの難儀に直面した時に、さあ、どうなるだろうかと思わずにです、はあ、今度は五百の力を受けられるんだ今度は、という思い方なんです。
ね、難儀への取り組み方とでも申しましょうか。ね。困ったことが起きてきたと、難儀なことだ、と。だから、その困ったこと、難儀なことをおかげにして行かなければならんというような、いわば、ような風に着眼するのではなくてです。ね。その難儀が大きければ大きいだけです、ね、それだけの力が受けられるチャンスを神様は与えて下さったんだ、という頂き方なんです。ね。
それが、そうとわかるところにです、その難儀は一つも難儀じゃない。なるほど、信心しておって変わったことが起こってきたら、おかげと心得させて頂くことが出来るのです。それを、おかげと心得ずに、難儀と心得る。ね。そんなに着眼が違うでしょう。それを難儀と見ておる。片一方は、それをおかげと見ておる。だから、百の難儀よりも、本当は二百の難儀の方が良いから、もう、ほんなこて、もう、三杯、二杯のお茶を、もう一杯でも、もう二杯でも飲みたいちゅうごたる気持ちがです、起こってくるわけなんですよ。
それがね、無茶苦茶に起きて来たというのなら、いざ知らず。信心をしておって起きてくる問題であるから、それは、問題ではない。どうですか、皆さん方は、もう、こげな素晴らしい御理解を頂きよるのに、居眠り(ふたむち?)してから。本当にそうなんですよ。ね。
ですから、本当に信心しておって起こって来たことをです、いやあ、これで、またおかげが受けられる、と。ね。そこに、それが難儀ではなくてから、神様のそれをおかげとして、おかげと心得て、信心することが出来るのです。ね。そこに、日頃、私が言う神愛です。神愛を確信する、絶対信という信心が生まれて来るのですよ。
信心をして起こってくることは、ね、おかげと心得て、信心の出けるところまでです。信心させて頂いて起きたことを、おかげと心得られるところまで、お互いの信心を高めて行かなければならんということ。全然、取るものが違うでしょうが。はあ、こげな難儀なことが起こってきた。どうでも、この難儀のことをいっちょおかげ頂かなきゃならん、お願いしてから、お願いをしておかげを頂かなければならんと、こう。
ね、普通はこれです。ですから、やはり、お願いしとっても不安である、心配である。だから、すきっとしたおかげにならんのである。ね。けど、それをおかげと心得て、信心をさせてもらうところにです、これならないでしょうが、心配はないでしょう。いや、それよりも、今までに二杯ずつしか飲んでなかったお茶を、もう一杯ずつ腹に入るしこいっちょ、ね、反対にもらおうとしておる。
ね、払わんならんとばかり思うとったのが、反対にもろうてよかモンならば、もう一皿ずつぐらいお菓子を食べよう、と。もう一杯ずつ、一つ頑張ってから、お茶を飲もう、と。苦しかったっちゃ、飲まにゃおられない。苦しかっても、私は、その、難儀大歓迎ということになって来るわけなん。
信心をしておって変わったことが起こってきたら、おかげと心得て信心せよ、と。これは、自分達の、ちった、身が大きすぎる、これは自分達にゃちょっと無理だ、と。(伴うところに?というようなところに?)お取次ぎを頂くわけなんですけれども。ね。それを、よくよく分からせて頂きよったら、御取次を頂いてお願いをさせてもろうて、段々分かっていくことはどういうことかと言うと、ね、それをおかげと心得れるところまで、私の信心を(テープ切れる。4秒ほど)難儀と感じるなら。それは、やっぱ困ったことと思うなら、それは、もう、修行不足と思わにゃいけん。ね。そして、本気で一つ、改まるところは改まらせてもらい、本気で、今まで精進の出けなかったところへ、精進の焦点を置いて、おかげを頂いて行くところにです、なるほど、おかげと心得れるだけの心得が生まれて来る。
そして、おかげになるだけではない、それだけの、今まで、百金しか持てなかった者がです、五百金の難儀に取り組んで、その五百金の難儀を難儀と思わずに、五百金のおかげと分からせてもらう時です、もう、五百金を持てれる力が出けたということになる。もう、実に楽しいことなんです、信心とは。
ね、ところが、皆さんの場合は、やはり難儀を難儀としか感じ、そこにしか焦点がおかれんでしょう。今までの着眼点がそこでしょうが。ね。だから、その着眼点を置き換えなさいて。置き換えたけれども、んなら、やっぱ不安であるならば、それは精進不足であり、修行不足であると思うて、それがおかげと心得れるところまで精進したり、改まったり、修行させて頂いたりすることだということ。ね。
そして、それを、たとえばニ遍が三遍、三遍が(しなん?)という風にです、それを本当におかげにして行くところの実力というものがです、いよいよ、一つも思い込みというのが出ける。なるほど、難あって喜べと仰る。なるほど、喜ばなければならんわけが分かって来る。ね。なるほど、信心して変わったことが起こって来たなら、おかげと心得てと仰るが、なるほど、おかげと思わなければおられなくなってくる。
いよいよ、神愛に対するところの神様の思いというものがです、の深さというものをです、こうして、神様が私どもにより大きなおかげを下さるための力を与えておって下さっておるということを分からせてもらう。ね。だから、その着眼がね、違ってはです、それが、おかげが溺れるようなものになったり、おかげを頂けなかったりするです。けれども、今日、私が言うところへ着眼してです。
ね、それが、着眼はしておるけれども、やはり不安である、心配であると言うなら、そこんところを、信心の精進が、改まりが疎かになっておるところであると分からせてもろうて、そこんところを満たして行く信心修行にならせて頂く時です、ね、なるほど、変わったことが起こってきたらおかげと仰るが、やっぱりおかげだなという体験。
それが、一つ、ニ遍、それが三遍という風に重なっていく内にです、なるほど、信心しておって起きてくることは、どのようなことであっても、おかげと心得させてもらえるものだという思い込みが出けた時、信心させて頂く本当の値打ち、信心させて頂く者の本当の、これは信心させて頂く、しかも、そういう信心をさせて頂く者でなからなければ、許されない境地というのが、一段と高められることが出来る。
そして一切の、たとえば、難儀に対するところの着眼点というものがです、ね、ただ、その難儀から脱却したい。どうぞ、その難儀をおかげにしたいという、いわば、そこだけのおかげに焦点をおかずして。ね。そこんところを、ね、着眼を、これは事業でもそうでしょうが。同じ仕事をしよってもです、その主人の着眼点が分かったら、もう、その商売は繁盛せんです。
先日、佐田が言いよりなさった。支店の物を自分が承るようになったら、もう本当に、それこそ、もう本当にたまがるように、好調になって来た。もちろん、おかげを受けておるからなんです。ね。そして、( )の方へ行ってみると、大きな商売はしておるけれども、見てみると、その、着眼点が違う。どこに焦点を置いとるだろうかと思う。これは、もう、根本的にやり変えなければ、本店の方は駄目だと私は感じたという意味のことを言うておられたがですね。
もう、とにかく、そこの主人の着眼が違う。ね。同じご用をさせてもらいよってもです、着眼が違うというだけで、その店が、孝になり、不孝になり。繁盛する、繁盛しないがあるのです。そういう鍵が、そこにあるんです。ね。ですから、本当のところに着眼して、間違いのないところに着眼して。そして、よく、こう信心も同じこと。私どもの信心の着眼点というものが、おかげを頂きたい、この難儀から脱却したい。どうぞ、この人が、こうおかげを頂きますように、というところだけに着眼しておる。
そういったことでは、そのおかげとても、頂いたところでも、ね、それは、はっきりしたおかげじゃないです。ね。ただ、おかげを頂いて、頂くでしょうけれどもです、ね、本当に、信心しておって変わったことが起こってきたら、おかげと心得られるようなものも生まれて来ない。ね。そん時には、やはり、その着眼点を変えなければならん。どうぞ。